島の声:下道基行の瀬戸内資料館

≪瀬戸内「  」資料館≫にて資料館館長・下道基行

著者:アンドリュー・マコーミック & 本橋英里

(Read the English version of the interview here.)

2019年瀬戸内国際芸術祭の秋会期中に宮浦ギャラリー六区にて、第一回瀬戸内「緑川洋一」資料館の展示を監修したアーティスト下道基行さん。2020年には家族とともに直島に移住。引き続き、宮浦ギャラリー六区の瀬戸内「 」資料館の館長として長期プロジェクトを進行中。

移住したきっかけや現在取り組んでいる資料館のプロジェクトについて、アート島センター・ディレクターのアンドリュー・マコーミックがインタビューをしました。

≪瀬戸内「緑川洋一」資料館≫ 撮影:宮脇慎太郎

下道さんのプロジェクトは、宮浦ギャラリー六区の館長として3年間、≪瀬戸内「   」資料館≫の企画・監修をされるそうですが、このプロジェクトはどのようにして始まったのですか?また、このプロジェクトを形作る上で福武財団の役割とは?

まず、2017年末あたりに、福武財団から連絡がありました。内容は「瀬戸内の風景をテーマにした長期的/継続的なプロジェクトをあなたに依頼することを考えている」という事でした。具体的には「オブジェクト的な作品ではなく、ラボラトリー的な作品」「地元の人が集まれたり関われる場」というイメージも提案されました。僕自身、この5年くらい、サウンドアーティストのmamoruやデザイナーの丸山晶崇などと一緒に移動するラボラトリー「旅するリサーチラボラトリー」や、バラバラな場所に住む3人組で「新しい骨董」と言うグループを遠隔でやったり、さらに、昨年はヴェネチアビエンナーレ日本館を舞台に、人類学者や作曲家や建築家やデザイナーやキュレーターとの協働作業で「宇宙の卵Cosmo-Eggs」と言う展覧会を作ったり。この提案は、僕のこのような協働での作品作りの延長であるように思え、とても面白い提案でした。さらに、幼い頃に「考古学者」に憧れ、大学時代は美術大学ですが「民俗学」にハマり、2016年からは国立民族学博物館の客員としてリサーチに携わりましたが、そのような興味や経験が生かされる場所かもしれないと感じました。

場所については、色々な候補があり、僕自身も実際に探してみて、スタッフと話し合いました。直島や宮浦ギャラリー六区ではない可能性もあり、今でも、このスペースの為にこのプロジェクトを作っている訳ではなく、移動可能なテンポラリーな感覚を持っている、という事です。

宮浦ギャラリー六区

福武財団はこれまで、この島でコレクションした現代美術の作品を見せたり、サイトスペシフィックな作品展開もしていますが、今回はさらに”長期”というタイムラインも加わる新たな挑戦として、僕を選んでくれたことを嬉しく思っています。毎回、キュレーターやスタッフと話し合い、予算や規模や内容を考えながら進めています。いつまで続くか、どのような完成になるか、それはまだ分からない部分も多いし、とても新しい挑戦だと感じています。

一人で新しい挑戦を見つけていくのは難しい時もある。ただ、誰かの依頼や提案から新しい何かが動き始めることは多い。今回の場合、財団の重要な”一つの役割”は、「言い出しっぺ」だったことであり「僕を選んでくれたこと」かもしれません。

下道さんのプロジェクトのように記録書や資料を使い公共の場でインスタレーション作品をつくることは急進的だと思うのですが、なぜこの方法を選んだのですか?

そのような過去のアーカイブを利用し作品作りを行う作家や作品は数えきれないと思います。ただ、多くの美術作家の場合、そのようなアーカイブを“素材”にして“フィクション”を交えながら、自らの作品を作ろうとするのがほとんどです。(フィクションを使った作品やインスタレーションは往々にして、アーカイブというビジュアルイメージを使ったデザイン的なものが多い。)僕の場合は、その過去のアーカイブ自体に興味があり尊重しているので、それを”素材”に新しいフィクションを自分の作品で作ろうとはあまり思いません。収集したアーカイブを新しい切り口で見せるという手法を取ります。

今回のプロジェクトもそうですが、僕の作品自体は、“美術の業界”としては跳躍が少なくて中途半端に受け取られることが多く、逆に“学問の業界”からは少しやりすぎに取られることが多く、“写真の業界”からは無視されています。笑

≪瀬戸内「百年観光」資料館≫の展示より

もう一つ、Archival materialの意味として、作家自身の制作のプロセスを丁寧に残しアーカイブ化し、作品内に可視化していくことだと考えると。そこへの僕自身の意識は非常に高いと思います。プロセスをどのように作品内に残していくか。それもまた、過去に様々な美術作家が挑戦してきたと思います。例えばこの直島で過去に行われた作品では川俣正さんでしょうか。

”作家は完成した作品を置く”そして”観客はそれを眺める”といいう構図ではなく、観客の関わり方は色々あると思いますし、その作品と観客の間の境界が曖昧になっていくのも面白いと思います。ただ、そう言うと、行政位主導など求めやすい“観客が一緒に体験できる「アート」ワークショップ“のような依頼に応えるような”ゆるい”ものにもなりかねない。僕はしっかりとした思考を中に閉じ込めた“作品“を信じているし、美術にしても音楽にしても文学にしても、作家の手を離れても人々の中で生き続ける存在を信じているしそれを作ろうと挑戦しています。

僕にとっては、プロセスを残しながら制作する手法として、過去の同様の美術作家を参考にしている以上に、かつて雑誌が元気だった時代に、旅をしながら雑誌で連載を行い、最後に1冊の本にまとめるような写真家や文筆家がいましたが、僕自身のデビュー作もそういう作り方をしたので、その経験に近いのかもしれません。

1回1回の連載記事は、それはそれとして独立して鑑賞できるものとして作られ、それが回を重ねながら、最後にひとつのまとまりを持った作品としてリリースされる。この資料館もそう言うイメージで動いています。つまり、この資料館での一つの展示は1回分の連載記事、本棚にその展示は再編集され入れられながら構成され、最終的な本棚/アーカイブが作品の本体ということです。

このプロジェクトの長期的な目標とは?また、長期プロジェクトをする上で将来、直島で「生きる」ことを思い描かれていますか?

この資料館は、直島だけでなく、この地域の島々の中で郷土資料館として機能する事を考えています。さらに、この土地から切り離され、どこかの美術館に持ち込まれた場合にも、別の意味を持つために準備したいと考えています。つまり、実際に使える図書資料館になる事、さらにそれが美術の作品でもある事、その両方が目標です。

まず、僕は瀬戸内の海沿いの、この直島の対岸の岡山の小さな集落で生まれ育ちました。ここの風景は僕の中に染みこんでいて、僕の中ですでに身体化してると思います。ただ、高校を卒業して東京へ出て以来、一度も帰っていなかったので、この地域のことを深く知ってはいない。だから、自分にとって大切なこの風景の中に、再び家族とともに実際に住み、関わり、向き合いながら、より深く知りたいし、新しく出会い直したい、そう思っています。仕事の依頼はそのチャンスを与えてくれたと思っている。

資料館の核となる4つの本棚。撮影:下道基行

例えば、かつて日本には、小学校や中学校の歴史や地理の先生をしながら、その地域を調査する「郷土史家」「民俗学者」がたくさんいました。宮本常一も初めはそういう一人だったと記憶しています。そういうリサーチャーたちは、ある地域に先生として赴任して、その地域を調べ、その記録や発掘を図書館のコーナーや小さな資料館として残しました。このプロジェクトで、僕はそのような存在になりたいと思っています。

次は「研究」についてお聞きします。下道さんご自身は観光学者ではないとおっしゃられていますが、知人の瀬戸内観光学者はこのプロジェクトにとても関心があるそうです。アーティストにとっての「研究」の役割についてどう思われますか?また、あなたにとって「研究」とはなんですか?

近年、人類学や科学とアーティストが接点を持つことが、欧米だけではなく、日本でも増えています。ヨーロッパでは大学で、artistic researchというジャンルもできています。学術的な“research”の先には「論文」がありますが、美術的な“research”の先には別の到達点/アウトプットがあります。そういった上で、アーティストによる調査とそのアウトプットが、学者側からの関心も高くなっているのではないかと思います。同じテーマであっても、研究者が到達できない範囲を美術家は扱っているのだと思います。それは逆のことも言えると思います。

最近の学者と美術家との共同作業を見ていて、陥りやすいのは、美術家の作品の“学術的裏付け”として学者が利用されること。美術批評家とは別の裏付けとして。僕は、学者や様々な人と美術家の双方向での刺激的な協働が起こることを期待していますし、自分も行なっていきたいです。

また、近年、日本ではローカルな地域において現代美術の芸術祭が多く行われ、美術家たちはその地域を調査し、そこから新しい作品を生み出すことが一般化し、“research”という言葉が一般的に使われています。多くの人は、“調査する”という意味で“research”を使っているようですが、何かを作る上で”調査する”のは当たり前のことであり、それは“search”の範囲であると考えます。本来は、“research”は、学術的に”調査し研究する”こと。今の日本の美術界ではその誤用が進んでいると思います。その誤訳や誤用も面白い”出来事”だとも思いますが。

“Research based artist”の中には、作品の横に「飾り」のように調査に使用した資料を並べる様子を見ますし、“調査”というビジュアルイメージを扱うデザイン的であることが見受けられ、作品と一体化していないことも多い。僕の場合、調査すること自体が作品を作る意味とくっ付いているので、調査を見せる/見せない方法はかなり意識的に行っているつもりです。

次は直島での制作についてお聞きします。地域について、経験や価値観などを物語るには多大な調査や努力が必要だと思います。資料館に訪れた地域のおじいちゃん、おばあちゃんからのフィードバックがあったり、実際に古い新聞記事のスクラップブックなどの資料を寄稿した方もおられるそうですね。そこで、地域に基づいた作品を作成しながら地域の方々と協力することに関して、アーティストとしての責任とはどのようなものですか?また、この制作活動は質的、難しさにどのように影響しますか?

前にも書きましたが、近年、多くのアーティストが様々な土地で調査をしながら作品製作をする事が当たり前の時代です。後押ししているのは瀬戸芸のような芸術祭。それぞれの作家は、地域の人々や歴史との関わりを持つことが多い。ただ、その多くの作家は、調査した資料からスタートし、最終的に“フィクション”を用いて跳躍し作品に着地することが多いので、本当の意味での地元の人々や歴史への責任を果たさないケースが多いように感じます。最終的な作品は”フィクション”であり”作家の創作物”であり、地元の人々や歴史はそのきっかけに過ぎない、という考えです。地元の人が容易に理解される作品というのもある意味で作品として問題かもしれませんが、地元の歴史や生活への一定の配慮や敬意は必要ではないかと思います。僕の場合は、基本的に“フィクション”は扱わず、”ドキュメント”に近い手法なので、地元の人々や歴史への配慮を忘れないように気をつけている方かもしれません。(あと、良かれと思って、作品を”新しく生み出す”ことはある意味で暴力的であるし、さらに”記録することや保存すること”すらも時間に対して暴力であることを書き加えときます。)

壁一面に並べられた直島の観光PRのポスター。このインタビューをしている中、下道さんは資料館から期間限定の映画館の準備をしているところ。

≪瀬戸内「   」資料館≫に寄贈された地元の資料は、保存し、さらに広く解放しています。古い新聞のスクラップは、今回の展示で「観光」というフレームの中で生かされ、多くの人が鑑賞しました。

今、このスクラップは≪瀬戸内「   」資料館≫で保存していますが、もし、地元の行政などが「これは地元のものだ!」という主張があれば、そちらへ譲ることも検討します(まだそのような話はないですが)。ただ、地元の役場に寄贈された物たちはしっかりと保存され、さらに様々に活用できているのでしょうか? 資料を島の倉庫に眠らせるのと、安定した環境で保存しながら、新しい活用していくのとどちらが良いでしょうか? 寄贈品がどちらの所有物というのではなく、協力しながら、しっかりと保存し、活用できる環境が作れると良いと思っています。(逆に、島の倉庫に眠る寄贈品をデジタルデータ化したり保存を助ける活動を、僕やアンドリューで行なって行けるといいなぁと思っています。)

僕は、国立民族学博物館で、収蔵庫に眠る写真資料の”再活用”をテーマに参加していました。美術館や博物館は、たくさんのアーカイブを抱え、さらにアーカイブを増やしていますが、その収蔵庫の収蔵品はアクティブに活用されることなく、あふれています。それは美術館や博物館の大きな問題です。それは、小さな島の役場や博物館でも同様です。

資料館にある4つの本棚の構想を見せてくれました。

プロジェクトは、「見える収蔵庫」をイメージしているので、図書館や博物館のように鑑賞可能な展示空間でありながら、僕の目標は、目の前の今の鑑賞者ではなく、この地域の未来のためにタイムカプセルを作っている感覚でもあります。そういう意味で、古い貴重な資料を収集すると同時に、今目の前で生まれては消えていくものたちを未来からの眼差しで見つめて、収集できていたら良いのですが、どこまでできているかは、何十年後かにわかるのではないかと思います。

この感覚は、生まれたばかりの娘の存在が大きいのかもしれません。

瀬戸内の島々でアートを制作するよう依頼された数十人のアーティストのうち、ほとんどが数日または数週間しか滞在されていませんが、下道さんは家族と一緒に直島に移住されました。過去にアーティストの川俣正さんは向島に、柳幸典さんは犬島にしばらく住まれていたのは、まれな例外ですが、下道さんが直島に引越しを決めた理由はなんですか?

その土地に長く住む事と作品が良くなる事が比例するとは思わないし、それが「褒められる事」とも思わない。ただ、僕は、作品を制作しながら、この時代に家族とサバイブしていきていく可能性を探していて、その可能性をこの島への移住に感じたし、挑戦してみたいと思った。この島がそれにぴったりの場所かはまだわからないが、2歳の娘は引っ越してきて以来、近所の人に優しく話しかけてくれるので上手に挨拶ができるようになったり、昆虫を観察したり、すでに変化が出てきている。

プライベートと仕事を分ける人が多いかもしれないが、僕の場合、生きること自体が仕事や作品制作と密に繋がり一体化しています。全てが日常生活であり、全てが旅であり、全てが作品制作である。

下道さんの作品は景観が主で特に、島、海岸、国境にフォーカスしていると思いますが、誰かを「ランドスケープアーティスト」と呼ぶことは、「ポートレートアーティスト」のように単純化しているようにも思えます。一方、写真家の畠山直哉やリチャード・ミズラックなどは、緊張感と意図の美的品質が彼らの作品から感じられます。下道さんは、景観としての可能性と課題をどのように考えていますか?

僕は風景に興味を持っているし、そこに含まれる時間に興味を持っている。表層的な風景写真の中に時間を視覚化する自分なりの手法を持っていると思う。風景を観察し、拾い集めて、並べて、新しいバランスの価値を発掘したいと考えています。遠い過去や未来を感じる事かもしれない。つまり、あなたが例に挙げる写真家の目指す完成とは別の場所に完成があるのかもしれない。作品におけるメディウムや品質は、僕にとってはそこまで問題ではなく、あえて距離を持っている。(逆に、普段、美術家は作品のメディウムと品質によって、美術的価値や美術史との接続を可能にすることが多いが。)

今の時代、作家の脳内の想像をビジュアル化するために写真は使われるし、写真家は写真というメディウムへの興味のために写真を使うことも少なくない。そんな中で、「見つめる先にある対象物への興味によって写真を使って記録する」作家は、ある意味「古風」かもしれないが、それが僕のスタイルなので、それは変わらない。

他者に対する興味の強く、他者に対して尊重しながら記録することをモチベーションにする人類学の人々と気があうのはそのためかもしれない。友人の人類学者と、初めてそれぞれの映像を見せ合った時、ある意味退屈”な映像のように感じたり、お互いにその対象物への興味や大切にしている部分の違いに驚いた。退屈であることすらも刺激的な体験だった。

資料館は期間限定で映画館へと変わり、入り口には下道さん作成による映画館のポスターが並べられました。

最後の質問になります。下道さんとは日頃、写真についてよくお話させてもらっていますが、下道さんの作品の多くは、力強い印象の写真や映像部分があって、作品制作にあたり常に膨大な量の資料をまとめると思います。地図やメモなど、すべての工程作業が最終的にひとつの作品となりますが、資料館では、下道さんが撮影した写真がほとんどなく今までにない初めての試みだと思います。展示された資料は、資料館にある4つの本棚に並んでいくという、≪瀬戸内「   」資料館≫。下道さんにとって、このプロジェクトは新しい方向性になるのでしょうか、それとも実験的なものになるのでしょうか?

このプロジェクトは、僕に取って新しい方向性であり、実験的な作品であると思います。ただ、写真をメインで扱わない作品製作は以前より、実験しています。例えば、Floating monuments”では沖縄の浜辺で拾い集めた漂着のガラス瓶を使って工芸作品を作っています。写真以外の手法を使いつつも、自分の中で写真的なイメージは常に存在しますが、逆に、写真は紙であり複製であり、ある種の”弱さ”を常に感じているのかもしれません。

≪瀬戸内「   」資料館≫は、僕自身は写真を撮らないけど、誰かが瀬戸内を記録したモノ(記録物)を収集します。集め方/カテゴライズは僕次第であり、製作方法としては”ファウンドフォト”的であるとも言えるのではないでしょうか。

創作活動で生きていくのはなかなか困難な道。ただ、「お前は面白いからもっと続けろ!」というごく少数の熱い応援”で今まで続けてこれたと思う。この直島のプロジェクトもその一つだと思い、新しい挑戦をしようと取り組んでいます。

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